二度の大寒波に京都は雪景色となりましたが、最近は陽だまりの温かさを感じる陽気となってまいりました。早く温かくならないかと待ち望んでいるのは私たちだけかもしれません。自然の営みは確かなものです。さて、3月の直書き御朱印・月替わり禅語御朱印のお知らせです。授与日は3月4日(土)・5日(日)となります。
丈夫心(じょうぶのこころ)
二度の大寒波に京都は雪景色となりましたが、最近は陽だまりの温かさを感じる陽気となってまいりました。早く温かくならないかと待ち望んでいるのは私たちだけかもしれません。自然の営みは確かなものです。さて、3月の直書き御朱印・月替わり禅語御朱印のお知らせです。授与日は3月4日(土)・5日(日)となります。
丈夫心(じょうぶのこころ)
大寒波が来るとニュースでは言っていた成人の日を含む一月の三連休でしたが、蓋を開けると春を彷彿とさせる暖かな気候で驚きました。新年を迎え本山恒例行事もコロナ以前の様式に戻り、一日も早い日常が戻ってくることを願って止みません。
さて二月の月例直書き御朱印授与日ですが4日(土)5日(日)とさせていただきます。節分に因んだ直書き御朱印を授与させていただきますので皆様是非お越しくださいませ。
外面如菩薩(げめんにょぼさつ)
外面如菩薩 内心如夜叉(げめんにょぼさつ ないしんにょやしゃ)という言葉がございます。外見は菩薩のような様子で、心の中は夜叉の如く残忍邪悪であることの例えです。
我々は世間体を大切にしすぎる世の中に生きており、また噂や見た目を本当に気にする生き物です。気付けば人の目を気にして自分と向き合わず、黒いものでも白と言う事だってある。最悪の場合目を背けて見ないふりをする。その様な姿勢に夜叉を感じずにはいられません。
誰々の為にという考え方を否定する気は毛頭ございませんが、その言葉が自身の思いから来ることを願っています。何よりも自分がしたいから、自分がそう思うかが大切なのです。節分に心の夜叉を祓いましょう。
鬼福同根(きふくどうこん)
誠に勝手ながら副住職の私自身が勝手に作りました造語です。節分の時に「鬼は外、福は内!」と声高に叫びながらいつも思っている事を言葉にしてみました。
「鬼とは何ぞや?」実際に鬼を見たことはないし、鬼とは恐ろしい生き物であるという認識が刷り込まれているが幼いころからの絵本や物語からの知識でしかない。むしろ今となっては人間が鬼に見えることがある。
お寺に生まれて一度だけ「お化け」を見た記憶がございます。本堂でのっぺらぼうの和尚さんを見たことが小学生の4年生の事でした。その時父である住職に泣きながら訴えると「お前の心に必要以上の怖いという思いと、うしろめたさがあったからみえたんや」と一蹴されたことを今でも思い出します。
人間の思いとは凄いものです。一度嫌なことがあるとその記憶は一生ものとなります。良いことがあるとそれもまた同じ。しかしその後の印象とやらは中々引きずられることがあります。「あんなに嫌な奴がこんな良い行いをするはずがない!」「あんなに素晴らしい人がこんな悪事をするはずがない!」なんて言葉の根拠はどこにあるのか?一つの事例に固執した向き合っていない考えとしか言いようがありません。
一つ言える事、様々な思いを感じることは我々に「心」という機能が存在するからです。常にコロコロと変化する中に放り出されているため中々思い通りにいかないものです。同じものを見て鬼と感じたり福と感じたり人によって様々です。様々な思いをたどればその行き着く先は「心」にあるのです。
賓主歴然(ひんじゅれきねん)
平等即差別、差別即平等、この世の不思議ですね。救われない人に手を差し伸べることは善行です。しかしその陰でまだまだ救われない人はいる。大多数の人にとって良いことは決して全ての人にとって良いことではない。屁理屈に聞こえるでしょうか?しかし紛うこと無き事実です。大切なのは常にこの世はとどまることが無いという事、形あるものは必ず滅するという事です。
私とあなた、大人と子供、男と女、大と小、低い高い、浅い深い、違いを認め合うだけでいい。どちらかが大切なのではなく、どちらも大切なのです。その様に考えれば自他の壁は自ずと消えていきます。どちらかに執着しているとまた差別が生まれます。
年の瀬迫る12月12日に妙心寺の御開山であられる関山慧玄禅師(無相大師)は風水泉のそばで旅支度のお姿で立ったまま亡くなられたと伝わっております。
無相大師の御遺言を御遺誡(ごゆいかい)と我々の世界ではいいます。
その一節に
「後昆直饒老僧を忘却するの日ありとも、應燈二祖の深恩を忘却せば、老僧が児孫にあらず。」
こうこんたといろうそうをぼうきゃくするのひありとも、おうとうにそのじんのんをぼうきゃくせば、ろうそうがじそんにあらず。
という文章があります。無相大師は自身の弟子に対して
「私の教えを忘れたとしても大應国師(建長寺御開山であり大徳寺御開山の師匠)・大燈国師(大徳寺御開山であり無相大師の師匠、建長寺御開山の弟子)の深い恩愛は決して忘れてはならない。もし忘れるようなことあらばお前たちは私の弟子ではない。」
と仰ったのです。とても考えさせられる御遺言です。そしてその最後に
「白雲は百丈の大功を感じ、虎丘は白雲の遺訓を歎ず。先規茲の如し、誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫んば好し。」
はくうんはひゃくじょうのだいこうをかんじ、くきゅうははくうんのゆいくんをたんず。せんきかくのごとし、あやまってはをつみえだをたずぬることなくんばよし。
「白雲守端禅師は、百丈懐海禅師が昔、道場の規則を作られた大きな功績に深く感服された。虎丘紹隆禅師は、白雲守端禅師の残された訓戒を称歎し奉読していた。
間違っても、葉を摘んだ後に、その木が何であるかを確認するような本末転倒な真似をしてはならない。」と仰いました。
今の時代だからこそ、この教えを皆様に知っていただきたいと思うのです。多くの新しい考えが古い教えやしきたりなどを塗り替えて刷新されています。その新しい流れはしっかりと古き流れの良い所を残して磨かれたものでしょうか?面倒だ、古臭いと意味を理解しようともせずに盲目的に切り捨てていないですか?
京都におりますと多くの歴史的名勝、史跡が町のいたるところに点在し、また普通に使っているものでさえ歴史あるものが多々存在します。その謂われや内容を我々はどれほど知っているというのでしょう?若い人が茶の湯や華道の何たるかを知らずカフェやフラワーアレンジメントに注目するのは?礼儀作法の真意を理解することなくマニュアルに固執するのは?自分の足を使わず、インターネットでワード検索「京都 おススメ」と打って自分が行きたいなどは二の次、世の流行を第一に動くのはなぜ?言い出したらきりがございません。
日本らしさに興味関心がある外国の方々に何が話せましょう?そもそもなにをもって日本人でありましょう?私は新しいものが憎いのではありません。その中には良いものであると思うものもございます。その良いと思うものは、古くから日本にあったものを現代の文化に重ねたものです。先人の英知に敬意を表し、その英知をしっかりと引き継いだものです。
日本は小さな島国ですが、地域にそれぞれ独特の風習・文化が息づいております。その心を途絶えさせては意味がない。高僧の教えを脈々と伝えてきたことと同じように、日本の文化・伝統を脈々と受け継ぎ生きていくことが今の日本では薄れてきているとおもいます。
父母の恩、それを上回るご先祖の恩を忘れない、それを引き継ぎながら今を生きていくことの大切さを皆様年の瀬に今一度お考えいただけると幸いです。