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ナイスタイミングとはどういった時でしょう?

例えば「お茶が飲みたいな。」そんな時にサッとお茶が呈せられる。「気が利くなぁ、できる人だなぁ。」と思います。ナイスタイミングです。でもこれが当たり前になってしまうと、「のどが渇いたなぁ。」と言ってから「今から茶を入れますね。」と言われると「気が効かないし、対応が遅いなぁ」思ってしまいます。人間とは本当に傲慢です。

啐啄同時とは絶好の機会のこと。また、学ぶ者と指導者の呼吸がぴったり合うことです。では今あげたナイスタイミングは啐啄同時の事だと思いますか?私は少し違うと思います。

禅宗では「公案問答」と言う師匠と弟子が一対一で行う問答があります。一般的な問題のように決まった答えはありません、これが厄介なんです。誰かと同じ問題をもらっても人と自分では答えが違うのです。困った問題ですよね。

では禅的質問をしましょう。

雨が降る様子を見て漁師さんは「船が出せないし漁ができん!」と嘆いています。一方農家の方は「雨のおかげで苗が生き生きとしている」と喜んでいます。その人の職業や性格で同じ状況でも反応は様々だ。こんな文章が公案問答の問です。だから何だ?となりますね。

ですが互いに共通する事があります。それは雨が降るという状況です。雨が降るという状況一つ取ってしても心ひとつで良くも悪くもとらえることが出来てしまう。この共通することを表現するならばあなたならどうする?それが答えとして求められるのです。あなたらしい答え方で根本に迫るからこそ答え方は人の数だけあるのです。そりゃ人と答えが違うわけです。

「公案問答」の話が長くなりました、話を戻します。私が思う啐啄同時とは「互いに高め合う中で機を逃さない。」という事です。「痒い所に手が届く」や「転ばぬ先の杖」とは違います。今これをしてあげれば相手が楽になるだろうということではありません。「最大限努めるんだ!もうこれ以上は力尽きてしまう!あと一歩なのに!」そこで背中を押してあげることが啐啄同時なのです。

この絶妙で絶好の機会を見極めることは容易ではありません。人生を狂わせるかもしれないし、下手すりゃ命も落としかねない。だからこそ禅宗では生きる事は経験を積むことが大切で、頭だけでなく体験が伴わなければならないのです。公案問答の答えの様に、人生における最適解それは一つではありません。今を生きるという大地の上に様々な生き方という無数の生命体があることを忘れてはならないのです。

有りとあらゆることが身に降りかかることが有り難い。

「鬱になったことはあるか?」たまに言われます。「あるんじゃないですか、だったら何だ?人間の感情なんて振り子みたいなもんですよ。」私なりの考えです。

安心と不安を行き来するし、怒りと喜びを繰り返す。楽しいと思ったら苦しく感じることもある。その振り子がたまに狂った時が鬱なのだろう。

だったら当たり前に皆経験しているじゃないか。自分だけではない、素晴らしく尊敬する人も必ず通る道、ではなぜそこで立ち止まる人と歩める人がいるのか?

人生を生きれるのは自分自身だと気付けるかではないでしょうか?苦しい時に優しくされて救われたと思っていたら大間違い。その優しさを汲み取れた自分がしっかりとあるからです。

他人には救えないと言っているわけではありません。人や物、自然や動物の言葉や動作に自身と向き合う気付きが散りばめられていてそれが互いに作用しあって成り立っているのですから。

だからこそ感謝がそこに生まれる、憤りや悲しみも生まれる、喜びや悲しみも、好感や嫌悪も、羨ましくも憎くも。

その生まれた感情にどう向き合うかの答えは自分で出すしかない。今思った感情はうやむやにせず今向き合い後回しにしない。そうやっていれば成長出来る。

その葛藤を続けるからこそ出会いがありがたいものだと言えるのだろう。心を働かせることは大切なのだと気付けるのだろう。

願わくば八風吹き荒れて(有りとあらゆることが身に降りかかって)一生を終えることを。

  • 2023年5月14日

驚きあきれるという意味の「あざむ」から来ていると言われる花が養徳院で満開を迎えています。とても美しい花ですが近づき触れようとすると葉に無数に生えた棘が鋭くて触れないことからこの名になったと言われております。「綺麗な花には棘がある」なんて言葉を思い浮かべると虚しくなるという方もおられるかもしれません。

前の養徳院の本堂の襖絵にアザミが描かれていました。養徳院の庭には住職が来る前からアザミが咲き乱れており、移築当時から咲いていたのかもしれないと考えてはおりましたが「何故アザミなんだ?」と常日頃より考えておりました。

「綺麗なものを手に入れたい、我が物にしたい」という思いは時代を問わず人々の心にあるものです。特に力を持つとこの思いは強くなります。物であれ人であれ、秀でたものを欲しがる人間の欲求は止まることを知りません。しかし実際に手に入れてしまうと、所有した自分がその物や人を従えた気分になり、いつしか支配したという思いが勝り、自分に酔ってしまう。憧れや好意を持っていた純粋な気持ちがこのように変わってしまってはただ醜い人間の欲望でしかありません。

綺麗だと思えば本来眺めているだけで幸せな気持ちになれるはずなのに、自分だけのものにしたいと花に触れようとするから棘が刺さるのです。私はアザミの花は真実の愛情の在り方を教えてくれる花だと思います。愛情とは見守ることです。「私が何かしてあげないと」と思える心は素晴らしいものですが、行き過ぎるとその人の成長の妨げでしかありません。その行き過ぎた行動が実を結ばなかった時、やがてそれは憤りに変わります。大切なのは見守ることです。アザミの花が養徳院の本堂に描かれている理由はそこにあるのではないかと勝手に私は思っています。


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